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スレッド62: 佐次兵衛鋪 見つけたぞー
No.0: 福岡野につづく道4   治田鉱山古道さがし
1. 南河内山図(1774年の古地図)

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2. 佐次兵衛鋪

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3. 佐次兵衛鋪の目印の大木

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日時: 2010/05/10 07:31
名前: わりばし ID:2a7vkiks

【日 時】2010年4月18日(日)
【山 域】鈴鹿
【コース】青川P7:18---8:50焼窯群---10:19佐次兵衛鋪---11:55乳母懐12:40---14:22丸山---16:22青川P
【メンバー】単独

 治田鉱山は、南河内山(檜谷、三光谷、添水)・君が畑山(蛇谷)・多志田山・野尻山の銀銅山の総称になっている。江戸時代以降、採掘される場所は移り変わっていったが、治田鉱山で採掘された鉱石を最終的に精錬した場所は福岡野。孫太尾根を通る牛道の最終目的地が精錬所のある福岡野になる。当初は蛇谷からの鉱石を牛道を使って尾根づたいに運んでいたようであるが、元禄時代には「特に南河内における採鉱が繁昌し、その製錬のため江州の木立や根までも掘りつくしてしまったので三日三夜で道をつけ福岡野まで鉱石を運び出し、伊尾熊野から木炭を買い上げて灰吹きをはじめたという。」(北勢町史)記述も見られ、多志田山や南河内山で採掘された鉱石も人足により牛道のある尾根まで担ぎ上げ福岡野まで運ばれたようである。私の中では、福岡野は「もののけ姫」のタタラ場のイメージを勝手に思い浮かべている。これまでに、治田鉱山の古道についてのレポートを3本してきた。

  「福岡野につづく道」  
     福岡野 ‐ 桃ノ木尾 ‐ 追分 ‐(孫太尾根)‐ 草木

  「福岡野につづく道2」
     日ノ岡 ‐ 三光谷 ‐ 与平治谷 ‐(中尾)‐ 添水銀山道 ‐ 県境尾根蛇谷分岐

  「福岡野につづく道3」
     日ノ岡 ‐ 檜谷 ‐ 七曲がり ‐ 人足道の杉 ‐ 県境尾根蛇谷分岐

 今回の山行では、三光谷を県境尾根までつめる大谷道を探索することにした。大谷道といっても江戸時代の南河内山図(1774年)に出てくるだけで、それ以降は忘れ去られた道と言っていいだろう。これまで探索してきた古道が、江戸時代以降に鉱山道や杣道、登山道として使われた歴史を持っており情報がいくつかあるのとは違ってまったく情報が無いに等しい状態であった。

 今日もいつもの青川駐車場に駐車し、青川を上っていく。昨年末の急ピッチの修復工事によりヤスミまでは、キャタピラ道がつづいており難なく歩ける。ここから、荒れた青川に入っていく。最初に出くわすのは、下り藤。江戸時代に女郎屋があったとされる場所だ。江戸時代の文化2年(1805年)の治田郷の証書には、治田鉱山において「遊女などをさしおかぬこと」といった文言が記載されており本当にあったのだと考えられる。人里はなれた地に売られた女たちがいたのだ。しばらくすると隋道が見えてくる。大阪商工会議所初代会頭五代友厚の娘五代アイが掘らせたトンネルだ。一昨年の豪雨により隋道の下流部分が流され、現在はその後の雨により大きく掘れている。今日は、週末の雨の影響で隧道から水が流れ二段滝を作っていた。そして、日ノ岡の上り口に着く。

 これより登山道を離れ、三光谷に入っていく。五代アイが掘削した大通洞坑の横を通り谷に入る。谷の入口には鉱山人夫のものと思われる二つの墓石が寄り添うように並んでいる。三光谷には江戸時代に甘露寺と三光寺という二つの寺があり、両寺とも現在は新町に移っている。両寺が移転したさい墓石も新町に移されたようだが、どうしてこの二つの墓石のみがこの地に残されたのか。不思議だ・・・・

 ここから三神谷口の焼窯跡までは小さな滝を越えるだけだ。しかも、猟師道としても使われており、いくつか猟師の黄テープが見られる。30分で焼窯跡に着く。この焼窯群は、元禄年代(1688~1703)の治田鉱山再興といわれたころに築かれ、活躍したものであると言われている。いずれも上部が壊れ基礎の石積が残るのみであるが、焼窯4基(17窯)が設置されている。紀州鉱山にも同時代の焼窯1基(5窯)が残されているが、この焼窯群ははるかに規模が大きいと言ってもいいだろう。

 これ以降、三光谷の大谷道の領域に入っていく。緑水さんは念仏滝で引き返したと言っていた。唯一、大谷道をさぐる情報としてあるのは西尾本に記載されている「左岸に谷から2~5m高いトラバース道となる」という記述のみである。先週は寺跡の尾根をつめて草木と多志田山のコルに着いてしまったので、今回は西尾本の記述にしたがって出来るだけ左岸をトラバースしなから谷をつめる事にした。与平治谷をすぎ、最初の連瀑の手前から左岸に取り付く。岩尾根を上りながら、トラバースできそうな所を探す。笹枯れにより乾燥した地肌の見える急斜面やクラが立ちはだかる場所が多くなかなかトラバース場所が見つけられない。それでもトラバースをして、行き詰まったら岩尾根を上り、トラバースルートを見つけるといった事を修行僧のように何度も繰り返した。岩尾根といっても、人が歩いていない場所で、岩につかまると岩の一部が抜け落ちるなど安心できない。枯れた木も多く、生木を頼りにモンキークライミングで上っていく。西尾本の2~5m高い落葉のトラバース道なんて、現在は無くなっているように思われる。

 岩尾根で休憩していると下流側に穴が見える。トラバースしながらカメラだけを持って近づいていくと坑口だ。惣右衛門(谷)の上部にあるとされる佐次兵衛鋪だろう。時代は古すぎて特定できていないようだが銀石を採掘していたようである。尾根には、目印となる大木も残されている。そして、この尾根からヨコズル(谷)までのトラバースルートは急にしっかりしたものになってきた。坑口と特定しても良さそうである。佐次兵衛鋪は、黒川静夫氏の「伊勢治田銀銅山の今昔」においても場所が特定出来ずに未調査になっていた坑口である。

 大谷道は途中でいったん大きく孫太尾根を上りイドマブ(谷)に下り、オノブマブ(谷)の坑口に沿うようにつけられている。つまり、三光谷の上部の坑口をつなぎながら県境尾根まできている牛道に到着する。古地図を見て、孫太尾根側に上りイドマブ(谷)に下りるという道のつけ方が不自然だなと感じた。最初は念仏滝を巻くためのものかと思っていたが、どうもそれだけでは無さそうである。佐次兵衛鋪を結ぶためにわざわざ孫太尾根側への湾曲する道を作ったと考えるのが妥当なようだ。佐次兵衛鋪からのしっかりしたトラバースルートには、治田鉱山の古道で使われる大木の目印も残されていた。佐次兵衛鋪からヨコズル(谷)までのルートは大谷道と考えてもいいように思う。

 ヨコズル(谷)の辺りから下れそうな尾根があるので、下ってみると。念仏滝の手前に降りていく。これでは、念仏滝を越えられないので、上り返しトラバースしていくがイドマブ(谷)に下れそうな場所も無く、多志田山をトラバースしている登山道にぶつかった。登山道を県境尾根に向かい蛇谷側の牛道を歩き、オノブマブ(谷)の源頭の乳母懐に向かう。大谷道をつめると本来は乳母懐に着く。ここには先週も昼食をとるために寄った。名前の示すとおり風も無く暖かい場所で、ゆったりと昼食を取るには持って来いだ。今日はおやつにシュークリームを持ってきた串田孫一の影響だ。以前はミルキーアンパンに触発されて山行には必ずあんぱんを持っていった時期もある。マイブームに弱いのである。

 昼食を終え、孫太尾根にもどる。孫太というのは新町新田の創始者東松孫太夫からつけられたようで、治田鉱山関連の名前になる。多志田道の分岐をすぎて草木に近づくと、何やらおかしい。先週の土曜日にたくさんさいていたヒロハノアマナやミスミソウ等が全て盗掘されている。根こそぎ全部だ。何を考えているんだ。病的としか思えないほど全部だ。何てことだ・・盗掘がこんなにひどいものだとは思わなかった。

 嫌な気持ちを引きずりながら、歩いていると、先週モミノキの大木を見つけた事を思い出した。草木の東側のコルから少し下るとありました。測ってみると3m40あって、立派なものだ。ただし、モミノキは棺桶には使われるがわりばしの原料ではなかった。

 そして、丸山を少し下った所にある怪傑紫頭巾の紫のビニールテープを眼にした。孫太尾根がヤブにつつまれ人が容易に入る事を許さなかった時のものだ。その時代の事を思い浮かべながら、複雑な思いで下山した。






No.1: Re: 福岡野につづく道4   治田鉱山古道さがし
日時: 2010/04/20 19:28
名前: 宮指路 ID:rWxJhYHI

わりばしさんこんばんは

>  私の中では、福岡野は「もののけ姫」のタタラ場のイメージを勝手に思い浮かべている。これまでに、治田鉱山の古道についてのレポートを3本してきた。

「もののけ姫」のタタラ場と言えば映画の場面が思い浮かんで来て興味が湧きますね。

> ここから、荒れた青川に入っていく。最初に出くわすのは、下り藤。江戸時代に女郎屋があったとされる場所だ。

何か目印になるようなものはありましたか?

>江戸時代の文化2年(1805年)の治田郷の証書には、治田鉱山において「遊女などをさしおかぬこと」といった文言が記載されており本当にあったのだと考えられる。

「遊女などをさしおかぬこと」の意味は何でしょう?連れ去らぬこととでも解しますか

>人里はなれた地に売られた女たちがいたのだ。しばらくすると隋道が見えてくる。大阪商工会議所初代会頭五代友厚の娘五代アイが掘らせたトンネルだ。一昨年の豪雨により隋道の下流部分が流され、現在はその後の雨により大きく掘れている。

例の素彫りのトンネルのことですか?

>  これより登山道を離れ、三光谷に入っていく。五代アイが掘削した大通洞坑の横を通り谷に入る。谷の入口には鉱山人夫のものと思われる二つの墓石が寄り添うように並んでいる。
治田鉱山見学会に同行した時にこの墓石を見ました。この洞穴も確認しました。

>三光谷には江戸時代に甘露寺と三光寺という二つの寺があり、両寺とも現在は新町に移っている。
寺跡を探しましたが見つかりませんでした。

>  ここから三神谷口の焼窯跡までは小さな滝を越えるだけだ。しかも、猟師道としても使われており、いくつか猟師の黄テープが見られる。30分で焼窯跡に着く。この焼窯群は、元禄年代(1688~1703)の治田鉱山再興といわれたころに築かれ、活躍したものであると言われている。いずれも上部が壊れ基礎の石積が残るのみであるが、焼窯4基(17窯)が設置されている。紀州鉱山にも同時代の焼窯1基(5窯)が残されているが、この焼窯群ははるかに規模が大きいと言ってもいいだろう。

ここも行きました。詳しく調べられていますね。
>
>  これ以降、三光谷の大谷道の領域に入っていく。緑水さんは念仏滝で引き返したと言っていた。唯一、大谷道をさぐる情報としてあるのは西尾本に記載されている「左岸に谷から2~5m高いトラバース道となる」という記述のみである。先週は寺跡の尾根をつめて草木と多志田山のコルに着いてしまったので、

ここまでは私も行きました。これ以降は完全に沢登りの世界で私にはとても真似できないなぁと思いました。

>それでもトラバースをして、行き詰まったら岩尾根を上り、トラバースルートを見つけるといった事を修行僧のように何度も繰り返した。岩尾根といっても、人が歩いていない場所で、岩につかまると岩の一部が抜け落ちるなど安心できない。

沢屋を通り越して修行僧の世界まで来ましたか
>
>  岩尾根で休憩していると下流側に穴が見える。トラバースしながらカメラだけを持って近づいていくと坑口だ。惣右衛門(谷)の上部にあるとされる佐次兵衛鋪だろう。時代は古すぎて特定できていないようだが銀石を採掘していたようである。尾根には、目印となる大木も残されている。そして、この尾根からヨコズル(谷)までのトラバースルートは急にしっかりしたものになってきた。坑口と特定しても良さそうである。佐次兵衛鋪は、黒川静夫氏の「伊勢治田銀銅山の今昔」においても場所が特定出来ずに未調査になっていた坑口である。

とうとう見つけましたね。おめでとうございます。
>
>
>  ここには先週も昼食をとるために寄った。名前の示すとおり風も無く暖かい場所で、ゆったりと昼食を取るには持って来いだ。今日はおやつにシュークリームを持ってきた串田孫一の影響だ。

シュークリームをザックに入れて来たら潰れませんか?

>  昼食を終え、孫太尾根にもどる。孫太というのは新町新田の創始者東松孫太夫からつけられたようで、治田鉱山関連の名前になる。多志田道の分岐をすぎて草木に近づくと、何やらおかしい。先週の土曜日にたくさんさいていたヒロハノアマナやミスミソウ等が全て盗掘されている。根こそぎ全部だ。何を考えているんだ。病的としか思えないほど全部だ。何てことだ・・盗掘がこんなにひどいものだとは思わなかった。

先週の日曜日には見ましたのでそれ以降ということになりますね。本当に残念です。
>
>  そして、丸山を少し下った所にある怪傑紫頭巾の紫のビニールテープを眼にした。孫太尾根がヤブにつつまれ人が容易に入る事を許さなかった時のものだ。その時代の事を思い浮かべながら、複雑な思いで下山した。

人が入らなかった時代にはそれこそ高山植物の宝庫だったでしょうね。数年前にはセツブンソウを見ることも出来ましたが今年は見れませんでした。

                               宮指路

No.2: Re^2: 福岡野につづく道4   治田鉱山古道さがし   [No.1への返信]
1. 沢の源流

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2. 盗掘されない場所に咲いたカタクリ

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3. 紫頭巾のビニールテープ

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日時: 2010/04/21 20:00
名前: わりばし ID:1snNN04A

宮指路さん、こんばんは。

> 「もののけ姫」のタタラ場と言えば映画の場面が思い浮かんで来て興味が湧きますね。

あの印象は強いですからね。

昔は、木も伐採されて映画のように殺伐とした光景だったのだと思います。

「もののけ姫」には牛飼も出てきて、牛がいろんな物を運ぶ場面もありますよね。

孫太尾根の牛道のイメージと重ね合わせたりしています。

>> ここから、荒れた青川に入っていく。最初に出くわすのは、下り藤。江戸時代に女郎屋があったとされる場所だ。
>
> 何か目印になるようなものはありましたか?

荒れた河原に、一部分だけ残された丘があります。

隋道横の赤い道標のある所です。

>>江戸時代の文化2年(1805年)の治田郷の証書には、治田鉱山において「遊女などをさしおかぬこと」といった文言が記載されており本当にあったのだと考えられる。
>
> 「遊女などをさしおかぬこと」の意味は何でしょう?連れ去らぬこととでも解しますか

「遊女などを、置いてはいけない」という意味のようです。

つまり、そういった商売をしてはいけないという事なんだと思います。

>>人里はなれた地に売られた女たちがいたのだ。しばらくすると隋道が見えてくる。大阪商工会議所初代会頭五代友厚の娘五代アイが掘らせたトンネルだ。一昨年の豪雨により隋道の下流部分が流され、現在はその後の雨により大きく掘れている。
>
> 例の素彫りのトンネルのことですか?

そうです。

>>それでもトラバースをして、行き詰まったら岩尾根を上り、トラバースルートを見つけるといった事を修行僧のように何度も繰り返した。岩尾根といっても、人が歩いていない場所で、岩につかまると岩の一部が抜け落ちるなど安心できない。
>
> 沢屋を通り越して修行僧の世界まで来ましたか

はい。

先の見えない修行をしているようでした。

>>  岩尾根で休憩していると下流側に穴が見える。トラバースしながらカメラだけを持って近づいていくと坑口だ。惣右衛門(谷)の上部にあるとされる佐次兵衛鋪だろう。時代は古すぎて特定できていないようだが銀石を採掘していたようである。尾根には、目印となる大木も残されている。そして、この尾根からヨコズル(谷)までのトラバースルートは急にしっかりしたものになってきた。坑口と特定しても良さそうである。佐次兵衛鋪は、黒川静夫氏の「伊勢治田銀銅山の今昔」においても場所が特定出来ずに未調査になっていた坑口である。
>
> とうとう見つけましたね。おめでとうございます。

ありがとうございます。

偶然なんですが・・・ハハハ

>>  ここには先週も昼食をとるために寄った。名前の示すとおり風も無く暖かい場所で、ゆったりと昼食を取るには持って来いだ。今日はおやつにシュークリームを持ってきた串田孫一の影響だ。
>
> シュークリームをザックに入れて来たら潰れませんか?

一番上に置いて、持っていきました。

とてもおいしかったです。

一度おためしあれ。

>>  昼食を終え、孫太尾根にもどる。孫太というのは新町新田の創始者東松孫太夫からつけられたようで、治田鉱山関連の名前になる。多志田道の分岐をすぎて草木に近づくと、何やらおかしい。先週の土曜日にたくさんさいていたヒロハノアマナやミスミソウ等が全て盗掘されている。根こそぎ全部だ。何を考えているんだ。病的としか思えないほど全部だ。何てことだ・・盗掘がこんなにひどいものだとは思わなかった。
>
> 先週の日曜日には見ましたのでそれ以降ということになりますね。本当に残念です。

悲しいや怒りを通りこして、あ然とする情景でした。

あそこまでするのは人間ぐらいでしょうね。

> 人が入らなかった時代にはそれこそ高山植物の宝庫だったでしょうね。数年前にはセツブンソウを見ることも出来ましたが今年は見れませんでした。

年々花が減っているようです。

無力感に襲われますね。

ヤブが元気になるのを待つしかないのでしょうか?
      
                                               わりばし
             


No.3: Re: 福岡野につづく道4   治田鉱山古道さがし
1. モズ♀

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日時: 2010/04/21 06:23
名前: 秋狸 ID:4my8lkw6

わりばしさん おはようさんです

> 【コース】青川P7:18---8:50焼窯群---10:19佐次兵衛鋪---11:55乳母懐12:40---14:22丸山---16:22青川P

前週もこの辺に入ったと書かれていましたが、また入ったのですね。

> 私の中では、福岡野は「もののけ姫」のタタラ場のイメージを勝手に思い浮かべている。

「もののけ姫」で出てくるような砦の雰囲気はあるのかな?

>  今回の山行では、三光谷を県境尾根までつめる大谷道を探索することにした。大谷道といっても江戸時代の南河内山図(1774年)に出てくるだけで、それ以降は忘れ去られた道と言っていいだろう。これまで探索してきた古道が、江戸時代以降に鉱山道や杣道、登山道として使われた歴史を持っており情報がいくつかあるのとは違ってまったく情報が無いに等しい状態であった。

三光谷の奥は黒川氏も未調査で情報があまりないですよね。

>  今日もいつもの青川駐車場に駐車し、青川を上っていく。昨年末の急ピッチの修復工事によりヤスミまでは、キャタピラ道がつづいており難なく歩ける。

キャタピラとは芋虫なり、てゆうかここでゆうキャタピラはアメリカの会社の名前ですね。日本語で言うと、正しくは無限軌道または履帯と表現されます。

>  これより登山道を離れ、三光谷に入っていく。五代アイが掘削した大通洞坑の横を通り谷に入る。谷の入口には鉱山人夫のものと思われる二つの墓石が寄り添うように並んでいる。三光谷には江戸時代に甘露寺と三光寺という二つの寺があり、両寺とも現在は新町に移っている。両寺が移転したさい墓石も新町に移されたようだが、どうしてこの二つの墓石のみがこの地に残されたのか。不思議だ・・・・

これはほんとに墓石なんでしょうか、本の地図にも墓と出ていますが、僕の中では道祖神みたいなものという印象でしたが。

>  ここから三神谷口の焼窯跡までは小さな滝を越えるだけだ。しかも、猟師道としても使われており、いくつか猟師の黄テープが見られる。30分で焼窯跡に着く。この焼窯群は、元禄年代(1688~1703)の治田鉱山再興といわれたころに築かれ、活躍したものであると言われている。いずれも上部が壊れ基礎の石積が残るのみであるが、焼窯4基(17窯)が設置されている。紀州鉱山にも同時代の焼窯1基(5窯)が残されているが、この焼窯群ははるかに規模が大きいと言ってもいいだろう。

今残っている窯跡はもっと新しい時代かもしれませんね。
連窯跡はオゾ谷のものも12連?くらいあって規模が大きいです。時代はずっと新しいでしょうけどね。

>  これ以降、三光谷の大谷道の領域に入っていく。緑水さんは念仏滝で引き返したと言っていた。

僕は三神谷より先には入ったことがないです。ところで、トノ谷出合にあったという石臼は行方不明になったのでしょうか?

>  岩尾根で休憩していると下流側に穴が見える。トラバースしながらカメラだけを持って近づいていくと坑口だ。惣右衛門(谷)の上部にあるとされる佐次兵衛鋪だろう。時代は古すぎて特定できていないようだが銀石を採掘していたようである。尾根には、目印となる大木も残されている。そして、この尾根からヨコズル(谷)までのトラバースルートは急にしっかりしたものになってきた。坑口と特定しても良さそうである。佐次兵衛鋪は、黒川静夫氏の「伊勢治田銀銅山の今昔」においても場所が特定出来ずに未調査になっていた坑口である。

おお~。これはすごい。大発見じゃ無いですか。地図の通りに惣右衛門の右岸側にあったのですか?標高どれくらいのところですか?

>  大谷道は途中でいったん大きく孫太尾根を上りイドマブ(谷)に下り、オノブマブ(谷)の坑口に沿うようにつけられている。つまり、三光谷の上部の坑口をつなぎながら県境尾根まできている牛道に到着する。古地図を見て、孫太尾根側に上りイドマブ(谷)に下りるという道のつけ方が不自然だなと感じた。最初は念仏滝を巻くためのものかと思っていたが、どうもそれだけでは無さそうである。佐次兵衛鋪を結ぶためにわざわざ孫太尾根側への湾曲する道を作ったと考えるのが妥当なようだ。佐次兵衛鋪からのしっかりしたトラバースルートには、治田鉱山の古道で使われる大木の目印も残されていた。佐次兵衛鋪からヨコズル(谷)までのルートは大谷道と考えてもいいように思う。

なるほど。鋭い考察ですね。でも、古地図見て道の付け方が不自然ってのは、鋭すぎるような気がしますが。
そうすると佐次兵衛鋪から下に続く道もちゃんと残ってそうですね。
それからイドマブとオノブの坑口はもう見つけているのですか?

>  昼食を終え、孫太尾根にもどる。孫太というのは新町新田の創始者東松孫太夫からつけられたようで、治田鉱山関連の名前になる。

これは知らなかった。こうゆうのを知っていたら太を多とか田と間違えないですよね。

> 多志田道の分岐をすぎて草木に近づくと、何やらおかしい。先週の土曜日にたくさんさいていたヒロハノアマナやミスミソウ等が全て盗掘されている。根こそぎ全部だ。何を考えているんだ。病的としか思えないほど全部だ。何てことだ・・盗掘がこんなにひどいものだとは思わなかった。

こんなのあんまり珍しい花のイメージ無いけど、根こそぎねえ。
だから、草花を追っかけるのは好きになれないのですよ。その点、木は誰も持って行かないからいいですよね。

>  嫌な気持ちを引きずりながら、歩いていると、先週モミノキの大木を見つけた事を思い出した。草木の東側のコルから少し下るとありました。測ってみると3m40あって、立派なものだ。ただし、モミノキは棺桶には使われるがわりばしの原料ではなかった。

あっ。この木はたぶん測ったことあります。
モミノキは棺桶なんだ。今年からはクリスマスツリーが棺桶に見えそう。

この日は訳あって御在所でロープウェイ観光でした。お疲れ様でした。


秋狸
No.4: Re^2: 福岡野につづく道4   治田鉱山古道さがし   [No.3への返信]
1. 三神谷口の焼窯跡

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2. 佐次兵衛鋪

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3. 棺桶の木

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日時: 2010/04/22 22:09
名前: わりばし ID:qrplfIok

こんばんは、秋狸さん。

> 前週もこの辺に入ったと書かれていましたが、また入ったのですね。

頭陀の洞窟といい伊吹といい、気になる事があると2週連続で同じ山に入る癖があるようです。

> 「もののけ姫」で出てくるような砦の雰囲気はあるのかな?

治田鉱山は幕府の直轄地の時期も長く、その後半は村請として村の自治がある程度保障されていたようですの

で、砦などで守る必要は無かったと思います。ですので、砦の雰囲気は無かったんじゃないかな。

> キャタピラとは芋虫なり、てゆうかここでゆうキャタピラはアメリカの会社の名前ですね。日本語で言うと、正しくは無限軌道または履帯と表現されます。

なかなかおもしろいですね日本語は。

エレクトーンは電子オルガン

ピアニカは鍵盤ハーモニカですからね。

>>  これより登山道を離れ、三光谷に入っていく。五代アイが掘削した大通洞坑の横を通り谷に入る。谷の入口には鉱山人夫のものと思われる二つの墓石が寄り添うように並んでいる。三光谷には江戸時代に甘露寺と三光寺という二つの寺があり、両寺とも現在は新町に移っている。両寺が移転したさい墓石も新町に移されたようだが、どうしてこの二つの墓石のみがこの地に残されたのか。不思議だ・・・・
>
> これはほんとに墓石なんでしょうか、本の地図にも墓と出ていますが、僕の中では道祖神みたいなものという印象でしたが。

読んだ資料には、すべて墓と書かれていたように思います。

何か根拠があるのかもしれません。

それが残された理由と関係しているかもしれませんね。

>>  ここから三神谷口の焼窯跡までは小さな滝を越えるだけだ。しかも、猟師道としても使われており、いくつか猟師の黄テープが見られる。30分で焼窯跡に着く。この焼窯群は、元禄年代(1688~1703)の治田鉱山再興といわれたころに築かれ、活躍したものであると言われている。いずれも上部が壊れ基礎の石積が残るのみであるが、焼窯4基(17窯)が設置されている。紀州鉱山にも同時代の焼窯1基(5窯)が残されているが、この焼窯群ははるかに規模が大きいと言ってもいいだろう。
>
> 今残っている窯跡はもっと新しい時代かもしれませんね。
> 連窯跡はオゾ谷のものも12連?くらいあって規模が大きいです。時代はずっと新しいでしょうけどね。

1774年の山光銅山近辺図にはカナ場としるされていますね。

山光銅山は稼動していた時期が長いので、長年にわたり修復や増設を繰り返しながら使われてきたと思います。

元禄年代(1688~1703)の治田鉱山再興がきっかけで作られたとは思いますが、現在の焼窯跡がいつの時代

に作られたかを特定するのは難しそうですね。

> 僕は三神谷より先には入ったことがないです。ところで、トノ谷出合にあったという石臼は行方不明になったのでしょうか?

私は気づきませんでした。

>>  岩尾根で休憩していると下流側に穴が見える。トラバースしながらカメラだけを持って近づいていくと坑口だ。惣右衛門(谷)の上部にあるとされる佐次兵衛鋪だろう。時代は古すぎて特定できていないようだが銀石を採掘していたようである。尾根には、目印となる大木も残されている。そして、この尾根からヨコズル(谷)までのトラバースルートは急にしっかりしたものになってきた。坑口と特定しても良さそうである。佐次兵衛鋪は、黒川静夫氏の「伊勢治田銀銅山の今昔」においても場所が特定出来ずに未調査になっていた坑口である。
>
> おお~。これはすごい。大発見じゃ無いですか。地図の通りに惣右衛門の右岸側にあったのですか?標高どれくらいのところですか?

偶然です。よく今まで穴がふさがらずに残っていてくれたと思います。

トラバースしている時には、惣右衛門(谷)がどれなのかわからなかったのですが、GPSで確認したら惣右衛門の

右岸です。標高は680mです。

>>  大谷道は途中でいったん大きく孫太尾根を上りイドマブ(谷)に下り、オノブマブ(谷)の坑口に沿うようにつけられている。つまり、三光谷の上部の坑口をつなぎながら県境尾根まできている牛道に到着する。古地図を見て、孫太尾根側に上りイドマブ(谷)に下りるという道のつけ方が不自然だなと感じた。最初は念仏滝を巻くためのものかと思っていたが、どうもそれだけでは無さそうである。佐次兵衛鋪を結ぶためにわざわざ孫太尾根側への湾曲する道を作ったと考えるのが妥当なようだ。佐次兵衛鋪からのしっかりしたトラバースルートには、治田鉱山の古道で使われる大木の目印も残されていた。佐次兵衛鋪からヨコズル(谷)までのルートは大谷道と考えてもいいように思う。
>
> なるほど。鋭い考察ですね。でも、古地図見て道の付け方が不自然ってのは、鋭すぎるような気がしますが。
> そうすると佐次兵衛鋪から下に続く道もちゃんと残ってそうですね。
> それからイドマブとオノブの坑口はもう見つけているのですか?

「佐次兵衛鋪から下に続く道」については歩いた感じでは谷筋の道だけに、残っているかなあ?

イドマブとオノブの坑口はまだです。

ただ、このあたりの坑口は添水銀山と同じような時期で、場所も近いので、添水銀山のようにすべて岩の扉で穴

がふさがれているのではないかとも思っています。

>> 多志田道の分岐をすぎて草木に近づくと、何やらおかしい。先週の土曜日にたくさんさいていたヒロハノアマナやミスミソウ等が全て盗掘されている。根こそぎ全部だ。何を考えているんだ。病的としか思えないほど全部だ。何てことだ・・盗掘がこんなにひどいものだとは思わなかった。
>
> こんなのあんまり珍しい花のイメージ無いけど、根こそぎねえ。
> だから、草花を追っかけるのは好きになれないのですよ。その点、木は誰も持って行かないからいいですよね。

花ならなんでも良かったって感じです。

孫太尾根は林道が下まで来ているし、県境稜線から比べると人が少ないので、ねらいやすいのかもしれません。

>>  嫌な気持ちを引きずりながら、歩いていると、先週モミノキの大木を見つけた事を思い出した。草木の東側のコルから少し下るとありました。測ってみると3m40あって、立派なものだ。ただし、モミノキは棺桶には使われるがわりばしの原料ではなかった。
>
> あっ。この木はたぶん測ったことあります。

写真の木です。

> モミノキは棺桶なんだ。今年からはクリスマスツリーが棺桶に見えそう。

ははは・・幸太郎くんが泣くかもしれませんね。

怪物君の雰囲気もするけど・・

> この日は訳あって御在所でロープウェイ観光でした。

お父ちゃんのおつとめご苦労様です。

それが出来る時期も長いようで短いですからね。

                                               わりばし

No.5: 五代アイについて   [No.2への返信]
日時: 2010/04/24 23:17
名前: 宮指路 ID:LM13ek5Y

わりばしさん、こんばんは。

中島氏の「近江鈴鹿の鉱山の歴史」によれば、五代アイ(明治9年生まれ)は治田の麓村に住み、犬を連れゲートルを巻き山へ入ったそうだ。財閥の御令嬢とは思えない入れ込みようだ。大柄で男装の麗人だった由。宝塚の男役みたいなものか。アイは昭和40年まで生きている。青川のトンネルもこの人が掘らせた。但し、三重県側が主で蛇谷銀山については記録が無い。治田周辺の鉱山は莫大な資金(20万円)をつぎ込んだ割に成果が上がらなかったようだ。

もののけ姫のエボシ御前は五代アイをモデルにしたようですね。

明日は鉱山跡を探しにヒノキ谷に行こうかなと思っています。

                                           宮指路
No.6: Re: 五代アイについて   [No.5への返信]
1. 山光銅山の石垣

-クリックすると元画像を表示-
2. 仙右衛門間歩横の石垣と六ショウ滝

-クリックすると元画像を表示-
3. 下り藤 跡

-クリックすると元画像を表示-
日時: 2010/04/25 08:16
名前: わりばし ID:qQb2U72k

おはようございます、宮指路さん。

> 中島氏の「近江鈴鹿の鉱山の歴史」によれば、五代アイ(明治9年生まれ)は治田の麓村に住み、犬を連れゲートルを巻き山へ入ったそうだ。財閥の御令嬢とは思えない入れ込みようだ。大柄で男装の麗人だった由。宝塚の男役みたいなものか。アイは昭和40年まで生きている。青川のトンネルもこの人が掘らせた。但し、三重県側が主で蛇谷銀山については記録が無い。治田周辺の鉱山は莫大な資金(20万円)をつぎ込んだ割に成果が上がらなかったようだ。

日ノ岡近くの大通洞坑の掘削と今日行かれる檜谷の仙右衛門間歩の保坑をしたようです。

五代アイは、最後まで「此の山の上部は荒らされているが、下部にはきっと大きな鉱脈がある」とにらんで疑わな

かったようです。

五代アイが試験的に掘らせた山光銅山の石垣の写真をはっておきます。

> もののけ姫のエボシ御前は五代アイをモデルにしたようですね。

そうなんだ、それは知らなかった。

ますます、福岡野ともののけ姫のタタラ場のイメージが重なってきます。

> 明日は鉱山跡を探しにヒノキ谷に行こうかなと思っています。

檜谷は三光谷に比べて沢歩きぽくなりますので、気をつけて行ってきてください。

写真は五代アイが保坑した仙右衛門間歩横の石垣と六ショウ滝です。

仙右衛門間歩は残っていますし、手前に目印の杉の木があります。

石垣の上の吹床跡には、カラミが残っています。

檜谷にはそのほか、忠臣蔵で有名な浅野家が取り潰しになった時の城代家老大野九郎兵衛の息子が一攫千金

をねらって江戸時代に掘っています。途中で資金を使い果たし、浅野家の遺宝の絵や刀や皿などを質入れしたよ

うです。現在は石槫の旧家に残されているようです。

                                                わりばし

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